探究心にエサをやる

気がつけば最近あまり本を読んでいない。

いろいろ買ってはいる。電子書籍でもちびちびとは読んでいる。マンガも読んでいる。ピッコマ経由で大量大人買いもしょっちゅうだ。

しかしそれを読書というかどうかは別として、量という意味より、「読んでいる」という実感というか、手応えがない。読書遍歴を振り返れば、ここ数年一番読んでいない時代だと思う。

あと気になるのは本を読むときの意識だ。ただ興味がある、楽しいからではなく、「役立つ」で本を選んでいる。「こんな自分になる」みたいな魅力的タイトルに惹かれて、いきおい、認めたくはないのだが「自己啓発」的な本も選んでいる。昔の自分だったら「ケッ」とバカにしそうなことだ。

じゃあ以前はというと、そのときそのときの自分なりのテーマを追い求めて本を選んでいた。イギリスの暗くてじめじめした風景が見えるような小説、好きな翻訳者が翻訳したもの、コージーなミステリー、時間の流れについて考える本などなど。もっと昔の子ども時代にさかのぼると、本は与えられるものであったけど、(うちの父は毎日1冊ずつ本をおみやげに買ってきてくれたのだ)いつも自分のすぐそばにあって、その中から好きなものが生まれた。ひとり本総選挙をやっていた。そしてその選抜メンを何度も何度も読んだ。ローテーションして、そろそろあの本の時期だなと本棚から取り出して、またその世界に浸っていった。もちろん時間も豊富にあった。考えてみれば本当に贅沢な時代だ。

いまはというと、限られた時間の中で、捻出した読書の時間はすぐ過ぎ去る。眠いし、読む気がおきない日もある。根性すえて読みたい小説などには手も足も出ない。少しずつだが、目も悪くなっている。もともとの近眼に加え、遠視がしのびよってきている。

いったい死ぬまでにどれだけの本が読めるのか。死ぬまでにどれだけの音楽が聴けるかというのも考えるが、切実な問題だ。
読んだり聞いたりということは受け身のアクティビティだ。どれだけ自分が能動的に選択しているつもりでも、所詮は人の書いたもの、作ったものだ。だから私は自分の好きな本、好きな音楽で自分というものを語れるとは思えない。ただ、やはり自分の体験をそこに乗せていくことでどうしても自分と一体化していく。そして自分の思い出として加工していく。だからこんな体験がしたい、こんな思い出が欲しいという気持ちで本を選択していた。現実的に「何に役立つ」ということではなくて、もっとどうでもよくて、ムダで、でたらめで、空想的で、そこにいるだけで幸せな場所。そんな場所を求めて本を開いていた時代に帰りたい。

だいたいかつては定期的、周期的に芽生えていた「探究心」みたいなものがいまいち沸いていない。学習欲はあるけどちょっと違う。一生のテーマになるようなガチなものでなくて、もっとふっと沸いてきて、一時期ぐーっと心を鷲掴みにして、時間がたったら去っていくような。自由研究みたいなもの。余裕のなさなんだろうか。年とったせいだろうか。忘れちゃってるのかな。もっとふらっと沸いた探究心を自由にさせてやらなければ。役立つことなんてくそくらえだ。

そんなことで、今年の目標は「自分の探究心にエサをやる」にした。まだ方法はわからないけど、どうでもいいことにもっと力を入れる。金も注ぎ込む(笑)意識的に、非効率的に。

詩ふたつ、志ふたつ。

そうこうしているうちに、あっという間に2015年の暮れが迫ってきてしまった。

今年は本当にいろんな別れがあり、身内の別れもあったけど、一方的な思い入れをしていた人たちとの別れもあった。その中でもわたしにとって大きなふたつの死について。

詩ふたつ-長田弘
ひとりは長田弘。5月3日に亡くなった。真実の言葉をすっと、渡してくれる人だった。まっすぐだけど、決して鋭く刺してくるような言葉ではなく、さらりと飲み込める言葉だった。鬱陶しいポジティブではなく、ただ素直な肯定があった。
2010年発行の「詩ふたつ」という詩集。
クリムトの絵とともに、「花を持って会いに行く」「人生は森のなかの一日」という、2つの詩が収められている。亡くなった奥さまに向けられた言葉は、そのまま、彼の言葉を心に刻んできた者たちに遺された言葉になった。どんな詩なのかはぜひ読んでいただきたいので、あとがきよりちょっとだけ抜粋。

亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人の生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだという、不思議にありありとした感覚。
「詩ふたつ」に刻みたかったのは、いまここという時間が本質的にもっている向日的な指向性でした。心に近しく親しい人の死が後にのこるものの胸のうちに遺すのは、いつのときでも生の球根です。喪によって、人が発見するのは絆だからです。

もうひとりはMark Murphy。10月22日に亡くなった。「歌うことは語ること」だと言うは易しだが、問題はそれがどういうことなのかということだ。個人的にはそれはinterpretすることであると思っている。interpretは解釈し、それを自らのフィルターを通して自らの表現として提示するということだ。彼はボーカリスト、ミュージシャンである以上に、最高のinterpreterであったと思っている。その上、その解釈をとても冒険的でヒップなスタイルで、見せ続けてくれた人だった。これからもわたしは彼の遺したものを聴いて、わくわくし続けるんだ。ひとつひとつ、玉手箱を開けるように。


Two Kites
ジョビンのも好きだけど、彼のバージョンは本当に飛ぶんだ。自分はライブでやって墜落したけど(笑)

Give me a moment
Just to finish this brew
To undo the voodoo
That kept you away

夏の終わりにズブぬれになって思ったこと

昨日は知多半島の大草海岸で歌ってきました。ポツポツ雨になったんであわてて最後の曲やって、そこからかなりの土砂降りでバケツかぶったみたいにズブぬれに(笑)ライブ終了後さらにひどくなる雨の中で、対岸の花火みて(ずっと傘さしててくれたKさんありがとう!)バーベキューやって帰ってきて爆睡。そして現在絶賛風邪の予感中と、このものすごい行き当たりばったり感がたまらない。底抜けに楽しい夜でした。

そしてその後、明け方に今月6日に見送って以来はじめて母が夢にでてきて。はたと目が覚めて自分の中で考えてたいろんなことが繋がってきたような気がしたんであわててここに書いとこうと。ちょう長文だし、まだ頭の中でまとまってないんで書きなぐりですが。

まず思ったのが、人は死んだときじゃなくて、本来の姿で記憶されるんだなあと。そして私にとってはそうあるべきだなということ。
母はもともと5年前にくも膜下出血で倒れて、今回2度目の出血で残念ながら助からずそのままいってしまったのですが、1度目に倒れたとき、おかげさまで外側は何の障害も残らなかったのですが、性格が変わってしまって、気弱でちょっとわがままな子供みたいな感じになったのですね。それはそれで新キャラ出現という感じで、楽しませてもらいましましたが、本当はイライラしたこともあったし、寂しかった部分でもありました。
でも今朝夢に出てきた母は以前の母でした。正義感が強くて、やると決めたら倒れるまでとことんやって、おだてに弱く(笑)人に喜んでもらうことを最上の喜びとしている。

これはこれでなんだかなあと思う部分もあったけど、かっこいいなと思う人でした。
新キャラの母になって、たった5年だったんだけど、もともとそういう人だったことを忘れてたんですよね。昔の母だったらどうするかみたいなことを思い出そうとしても、今の母の印象が強くて思い出せない。
と思ってたんですが、今日の夢を通して、意外とすんなりと昔の母は帰ってきました。そしてわたしはやっぱり昔の母が好きだから、その姿で記憶しておけばいいんだと。

そう思ったらぶわーって泣けてきて、正直これまでもちらほら感情を小爆発させてたけど、コントロールしてる部分があったんですよね。

感情ってミルフィーユのようなものですよね。いろんな色、かたちで何層にもなっていて、どれを取り出すかは自分次第でもあるんですが。頭で戦略的に選ぶ方が、「より良い人生」のためにはいいと思うけど、ときにはそういうスイッチを切って、ただの「生物」に戻って、まるごと本能的に感じる勇気も必要だなと。「面白い人生」にしたいなら。そうなることで失敗したり、傷ついたりしてしまうかもしれないけど、その先に見えるものがやっぱり見てみたい。

昨日バンドの人に「もっともっとさらけだせ」みたいなことを言われて、それはいみじくも自分の音楽活動上での課題だったので、ドキっとしました。とくに先月からの怒涛の展開で歌う気力がなくなってたし、ちょっと引っ込みたくなってて「雨の岩戸」みたいな状態だったんですね。自分が。だからこのところ、ちょっと何取り出すか慎重に選んでたんですよ。ミルフィーユの中から。

だけど海と雨がそういう引っ込んでた自分を洗い流してくれて、ポーンとなんか飛び出したっていうか。きっとそれで母の夢もみられたのかな。やっぱり自然は偉大ですねえ。

いつもライブやっているときは、そこにいる人たちと「どこか」に行けたらいいなと思ってるんですよ。だけど、正直それがなかなかできない部分でもあったりするのです。「どこか」に連れて行こうにも自分が家から出てないというか、そういう状態のときもあり。せっかくみんなは旅支度で行く気まんまんなのに、自分はまだ家にいるという(笑)どっちかというと頭で考える派なので、ついついそういうものが邪魔したりとかですね。
でもみんなに来てもらうためには、わたしが行かないと。まだまだ準備ができてないかもしれないけど、とりあえず成り行きでズブ濡れになるくらいの覚悟で。

結局ほんとはそこなんですよね。芸事の本当の楽しみにありかは。苦しみもセットだけどね。腹の底からバカになるっていう。ちょっと理性でコントロールするところを超えたあの最高の場所にまた行けたらいいなあと思ったのでありました。

音楽、海、雨、花火。
なんというかハードな夏でした。ベートーベンじゃないけど、リアルに運命が扉を叩く中で、戻ることができない選択をいくつもしたし、理解できないままに崖っぷちに立たされ、そこから這い上ったり、でも突き落とされたりして何かを感じてるヒマもなかった。
だけど最高にかっこいい生き様の人との出会いもあったし(これについてはまたあらためて書きたい)これからの人生に役立つ詰め合わせセットをたくさんいただいた夏でもあったなと。

見守りふくろうさん
見守りふくろうさん

生徒さんからいただいたふくろうさん。「見守り」ふくろうさんなんだって。
今回、生徒さんからもたくさんの言葉や気持ちをいただきました。今までわたしが生徒さんに差し上げてきたほんとにささやかな気持ちにいっぱいいっぱい利子がついて返ってきた感じで、気づかないうちに、わたしこんなに貯金してたんだとわかってすごくすごくうれしかった。いや、貯金っていうとおこがましいかもしれないな。もっともっと大きな宝くじレベルです。本当にありがとうございました。

内気な人と含羞について考える

ライフハッカーでこんな記事をみました。

内気な人がバランス良い生活を送るための7つのヒント

引用元はPick the Brainでタイトルは7 Tips For Introverts to Lead a Balanced Lifeとなってました。introverts=内省的な人、内向的な人ってのが最近肩身がせまいと感じているのは日本だけじゃないんだなとちょっとグッときました。

友達が多い人、繋がっている人がリア充とか、キラキラ生活みたいなのもそうなんだろうけど、もう1つ気になるのは、昨今の「前に出てなんぼ」といいますか、How to get noticedみたいな風潮。個人でもブログ書いて、アウトプットして、本も出しましょうみたいな。いやそういうのも嫌いじゃないんだけど、時々めんどくさいなあというか、誰もいない荒野で動物と暮らしていきたいとか思っちゃう。だいたい大きな声あげて目立ちましょうというのは、およそ日本的ではないなと思うし。しかもこちらも日本的な「みんなそうしてるから」という横並びでいなきゃという意識がちょっと悪い方に作用してるというか。

その昔、某宇宙開発系企業の若手の人を取材させてもらったときに、その人が「最近『含羞』について考えてるんですよ」と言って。まだ当時20代のその人の口から「含羞」という言葉が出たことも驚きだったんだけど…だって、まだがつがつしていてもいい年代なのに、えらいかっこいいなと思いました。まあ大手でそれなりのポジションにあった人だからいえることかもしれないですが…。余裕なきゃ言えないよなあ、あんなセリフは。

しかし今こそ、こういう含羞とか、路傍の石とか、主張しない美徳とかそういうのもちょっと思い出してもいいんじゃないかな。「私は」が溢れてたらやっぱりちょっと息苦しいし、損得ばかり考えていたら疲れちゃう。そしてそういうことに「ケッ」って言って「嫌われる勇気」(笑)を持ちたいもんだ。たまにはシャッター閉めちゃいますみたいな。

とかいいながら自分もそういう輪に巻き込まれているんだけども。少なくともこのかしましい世の中で、誰からも触れられないものも持っていたいなと思うのでありました。内むきに、ひっそりと。